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◆日本ハム2―0西武(26日・札幌ドーム) 涙のナベQが、4度宙に舞った。マジック1として迎えた西武は、日本ハムに完封負けしたが2位のオリックスが楽天に1―13で大敗。4年ぶり21度目(西鉄時代を含む)のリーグ優勝を果たした。昨季は5位と26年ぶりのBクラスに低迷したが、就任1年目の渡辺久信監督(43)が、「脱管理野球」で再建。カブレラ、和田ら主力が抜けながらも一発攻勢で開幕から独走。札幌Dで歓喜の胴上げとなった。
グラウンドでは絶対に涙を見せなかった男が、顔を真っ赤にして泣き続けた。野球人生で初めてあふれ出てきた涙は、いつまでも止まらなかった。今季最少の2安打完封負けという悔しさも涙が洗い流した。「決め方はかっこよくなかったけど、よく頑張ってくれた。みんなに感謝しています」渡辺監督は歓喜の輪の中でそうあいさつすると、たくましく成長したナインの手で、身長185センチ、体重95キロの大きな体がせり上がった。「大した選手たちだ。俺は誇りに思うよ」就任1年目でリーグ制覇を遂げた若き指揮官は4度、宙を舞った。
監督就任の要請を受けた昨秋の夜、何度寝ついても目が覚めた。「下位チーム特有の嫌なムードを感じていた。今年浮上できなければ西武は終わるかもしれない」裏金問題に26年ぶり2度目のBクラス。球団が抱える傷は予想以上に深かった。俺がチームを再生できるのか? 自問自答を繰り返すうちに、ある思いが全身にたぎってきた。「西武を、日本球界を見返すチャンスかもしれない」
忘れもしない97年11月28日。西武から突然、戦力外通告を受けた。「チームを支えてきた自負はあるからショックだった。引退試合もしたかったしね」野村ヤクルトに拾われたが、1年で解雇され、家族を残して台湾へ渡った。中国語を覚え、エース兼コーチとして白球を追った。「北京五輪で中国代表の投手コーチにでもなって日本をやっつけたら面白いな」失ったプライドの再生を日本球界への対抗心で埋めた。
西武の監督を引き受けて、まず意識したのは現役時代に仕込まれた「管理野球」の打破だった。ミスを責めず、懲罰的な起用をやめる。遠征先での門限も緩めるなど、自己管理は選手に任せた。「2軍監督をやってみて、選手の力を引き出すには余計なプレッシャーをかけないことが大切だと気づいた」自主性は責任感に変わり、打力の上昇がチームを常勝へ導いた。
「最大の危機」は10勝14敗で負け越した交流戦だった。6連敗で終えた6月23日の横浜スタジアム。緊急ミーティングで励ました。「去年(9勝15敗)より1つ多く勝ったんだから十分やった。この1勝の重みは必ず生きてくる」ナインの表情が明るくなるのを見て、「こいつら大丈夫だ」と確信した。初めて優勝を意識した瞬間だった。
西武を、日本を見返してやる。そんな思いで始まった第2の野球人生は、4年ぶりの優勝で球団を立て直し、北京五輪の日本代表に涌井、中島、G・G・佐藤という人材を送り出して、第1章を終えた。「俺は西武のアウトローだから。でも、あのまま西武にいたら確実に今の俺はなかった」西武ライオンズへの愛着と反骨心。どちらも深かったから、渡辺久信はチームの再生に成功した。
「泣いたのはオグリキャップが有馬記念を勝った時以来かな」泣き顔は球場を出るころには笑顔に変わっていた。新生レオを象徴する笑顔だった。
◆渡辺 久信(わたなべ・ひさのぶ)1965年8月2日、群馬県生まれ。43歳。前橋工から83年ドラフト1位で西武に入団。3度の最多勝に輝くなど、西武の黄金時代を支えた。98年にヤクルトへ移籍。99年からは台湾で選手兼コーチとして活躍し、01年に引退。04年から西武の2軍投手コーチ、監督を歴任し、今季から1軍の監督に就任した。現役時代の通算成績は125勝110敗、防御率3・67。185センチ、95キロ。右投右打。家族は妻と2女。
参照元:スポーツ報知
グラウンドでは絶対に涙を見せなかった男が、顔を真っ赤にして泣き続けた。野球人生で初めてあふれ出てきた涙は、いつまでも止まらなかった。今季最少の2安打完封負けという悔しさも涙が洗い流した。「決め方はかっこよくなかったけど、よく頑張ってくれた。みんなに感謝しています」渡辺監督は歓喜の輪の中でそうあいさつすると、たくましく成長したナインの手で、身長185センチ、体重95キロの大きな体がせり上がった。「大した選手たちだ。俺は誇りに思うよ」就任1年目でリーグ制覇を遂げた若き指揮官は4度、宙を舞った。
監督就任の要請を受けた昨秋の夜、何度寝ついても目が覚めた。「下位チーム特有の嫌なムードを感じていた。今年浮上できなければ西武は終わるかもしれない」裏金問題に26年ぶり2度目のBクラス。球団が抱える傷は予想以上に深かった。俺がチームを再生できるのか? 自問自答を繰り返すうちに、ある思いが全身にたぎってきた。「西武を、日本球界を見返すチャンスかもしれない」
忘れもしない97年11月28日。西武から突然、戦力外通告を受けた。「チームを支えてきた自負はあるからショックだった。引退試合もしたかったしね」野村ヤクルトに拾われたが、1年で解雇され、家族を残して台湾へ渡った。中国語を覚え、エース兼コーチとして白球を追った。「北京五輪で中国代表の投手コーチにでもなって日本をやっつけたら面白いな」失ったプライドの再生を日本球界への対抗心で埋めた。
西武の監督を引き受けて、まず意識したのは現役時代に仕込まれた「管理野球」の打破だった。ミスを責めず、懲罰的な起用をやめる。遠征先での門限も緩めるなど、自己管理は選手に任せた。「2軍監督をやってみて、選手の力を引き出すには余計なプレッシャーをかけないことが大切だと気づいた」自主性は責任感に変わり、打力の上昇がチームを常勝へ導いた。
「最大の危機」は10勝14敗で負け越した交流戦だった。6連敗で終えた6月23日の横浜スタジアム。緊急ミーティングで励ました。「去年(9勝15敗)より1つ多く勝ったんだから十分やった。この1勝の重みは必ず生きてくる」ナインの表情が明るくなるのを見て、「こいつら大丈夫だ」と確信した。初めて優勝を意識した瞬間だった。
西武を、日本を見返してやる。そんな思いで始まった第2の野球人生は、4年ぶりの優勝で球団を立て直し、北京五輪の日本代表に涌井、中島、G・G・佐藤という人材を送り出して、第1章を終えた。「俺は西武のアウトローだから。でも、あのまま西武にいたら確実に今の俺はなかった」西武ライオンズへの愛着と反骨心。どちらも深かったから、渡辺久信はチームの再生に成功した。
「泣いたのはオグリキャップが有馬記念を勝った時以来かな」泣き顔は球場を出るころには笑顔に変わっていた。新生レオを象徴する笑顔だった。
◆渡辺 久信(わたなべ・ひさのぶ)1965年8月2日、群馬県生まれ。43歳。前橋工から83年ドラフト1位で西武に入団。3度の最多勝に輝くなど、西武の黄金時代を支えた。98年にヤクルトへ移籍。99年からは台湾で選手兼コーチとして活躍し、01年に引退。04年から西武の2軍投手コーチ、監督を歴任し、今季から1軍の監督に就任した。現役時代の通算成績は125勝110敗、防御率3・67。185センチ、95キロ。右投右打。家族は妻と2女。
参照元:スポーツ報知
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