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おびただしいフラッシュでスタンドがきらめいていた。4打席凡退で迎えた8回の5打席目。観客の期待はふくれあがり、声を限りに「マエダ!」と連呼した。待ち望んだ一打にふさわしい、鋭い打球が右前へ。ヒーローインタビューでの「今日という日を一生忘れることはないです」という前田智の言葉を、本拠地今季2番目の2万9541人のファンが共有した。
半分あきらめていた。8回の攻撃は6番の栗原から。「もう回ってこないと思っていた」それでも、この回9番目の打者に、逆転してなおも2死満塁のチャンスがめぐってきた。「打たないわけにはいかなかった」仲間への感謝を、力強いスイングに変えた。
「けがが多く、チームの足を引っ張ってきました。本当に、こんな選手を応援していただいて…」苦しみ抜いた野球人生だった。1995年5月23日のヤクルト戦(神宮)。「切れた! 切れた!」という悲痛な叫びが、地獄の始まりだった。二ゴロで一塁に駆け込んだ際に、右アキレスけんを断裂。奇跡的な復活を遂げたが2000年、今度は痛めた左アキレスけんにメスを入れた。
両足に“爆弾”を抱え「もう野球をやめないといけない。こんなプレーでは…」。リハビリの過程では「走りながら怖さをとっていきましょう」と、助言するトレーナーに、「走らないんじゃなくて、走れないんだ!」と、激しい押し問答にもなった。
「前田はもう死にました」と、話すほど追いつめられた。だが、野球に対するストイックな姿勢は失われなかった。自宅に帰ってからも、深夜に毎日素振りを繰り返した。バットを抱きかかえて眠りについた。打撃練習でうまくいかないと、感情を抑えられずに叫ぶことさえあった。入団間もないころの早出特打。当時の水谷打撃コーチに「打撃投手がこわがって投げられないだろう!」と、一喝された。「あのおっちゃんたちに、褒められたい一心だった」苦闘の日々が、礎だった。
記念の一打を放って一塁へ到達した背番号1のもとへ、ユニホーム姿の5歳と4歳の2人の愛息が、花輪を持って祝福に来てくれた。「カープの前田はつまらん。ホームランを打たんもん」と、不満を言われることもあったが、幼い2人の目にも、大拍手を受ける父の雄姿は焼き付いただろう。
「今季のここまでの戦いを思うと、悔しくてなりません」お立ち台では、振るわない自身とチームに対する悔しさから思わず涙を流した。大記録を達成したサムライは「ファンの方に、1つでも多く勝利を」と、巻き返しを高らかに誓った。
◆前田 智徳(まえだ・とものり)1971年6月14日、熊本県生まれ。36歳。熊本工高から89年ドラフト4位で広島に入団。ベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ4度獲得し、オールスター戦には6回出場。今季の年俸は2億1000万円(推定)。175センチ、80キロ。右投左打。家族は妻と2男。
参照元 スポーツ報知