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1984年夏の甲子園で優勝した取手二高(茨城)のエースで、大洋、横浜で活躍した石田文樹(いしだ・ふみき)現横浜打撃投手が15日、直腸がんのため横浜市内の病院で亡くなった。41歳だった。石田さんは、2年生エースの桑田真澄(現スポーツ報知評論家)、4番の清原和博(現オリックス)を中心に当時、高校野球史上最強とうたわれたPL学園を相手に決勝戦で好投。延長戦の末、県勢初の全国制覇を達成した。KKは3度出場した夏の甲子園で、一度だけ敗れた相手である石田さんの早すぎる死に大きなショックを受けた。
甲子園の大ヒーローが早逝した。取手二高時代、エースだった石田さんは、桑田、清原らスター選手を擁し当時、高校野球史上最強とおそれられたPL学園を下して、茨城県勢初の優勝へ導いた。現在は、横浜の打撃投手を務めている中、直腸がんを患い、この日41年間の生涯を閉じた。
石田さんは今年2月の宜野湾キャンプでは、微熱が続き、患部の周辺の痛みに煩わされていたため、鎮痛剤を服用しながら練習に参加していた。3月に精密検査を受けた結果、直腸がんが見つかり入院。復帰を目指し苦しい闘病生活にも耐えていた。最近でも母校・取手二高の試合結果や、野球部で活躍する高校2年生の長男のことを気にかけるなど、野球への情熱を失ってはいなかった。
石田さんが全国区のスターとなったのは1984年夏の甲子園。木内幸男監督(77=現常総学院監督)の下、“のびのび野球”で深紅の大優勝旗を手にした。決勝戦では、エースの石田さんが強気の投球で清原を3打数1安打に抑え、桑田との投げ合いを制した。木内監督は「頼りになる投手だった。茨城大会は全然ダメ。甲子園入りして休ませたら治った。それでチームが活気づいて全国制覇までいけた。石田の肩がみんなに夢を与えた」と思い出す。36歳年下の教え子の死を悲しんだ。
高校卒業後は早大へ進学したものの1年たたずして退学。社会人の日本石油(現新日本石油ENEOS)を経て88年のドラフト5位で大洋に入団した。1年目から主に中継ぎとして登板、94年の引退まで通算25試合で1勝。95年からは横浜の打撃投手として裏方でチーム支えていた。スコアラーも兼ねていた仕事はきめ細かく、若手野手からの信頼は厚かった。
チームメートもショックを隠せなかった。同期入団の石井琢朗内野手(37)は「(病状は)分かってはいたけどつらい」と目を潤ませた。試合前には「もう1回(打撃投手として)ユニホームを着るのを楽しみにしていた。もう一度(いっしょに)野球をした気分になりたかった」と、石田さんの背番号88が入ったユニホームを着て練習も行った。
この日、横浜スタジアムで行われた広島戦では半旗が掲げられ、横浜ナインは左袖に喪章を付け試合に臨んだ。試合前には黙とうし、その早すぎる死を悼んだ。
◆石田 文樹(いしだ・ふみき)1966年8月22日、茨城県生まれ。取手二高の右腕エースとして83春、84春、夏と甲子園に出場。84年夏は全国制覇を達成した。早大進学も中退、日本石油(現新日本石油ENEOS)を経て88年ドラフト5位で大洋(現横浜)に入団。94年に現役を引退し、打撃投手に。また、94年から登録名を「大也(ともや)」に変更した。プロ通算成績は25試合に登板。1勝0敗、防御率4・59。
参照元:スポーツ報知